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東京地方裁判所 平成7年(行ウ)63号 判決 1998年3月05日

原告

甲野花子

右訴訟代理人弁護士

田邊勝己

菰田優

被告

地方公務員災害補償基金東京都支部長 青島幸男

右訴訟代理人弁護士

大山英雄

主文

一  原告の請求を棄却する。

二  訴訟費用は原告の負担とする。

事実及び理由

第一請求

被告が原告に対し、平成三年六月二一日付けでした公務外認定処分(以下「本件処分」という。)を取り消す。

第二事案の概要

本件は、公立小学校の校長として勤務していた甲野太郎(以下「太郎」という。)が児童の登山遠足の引率業務に従事中に倒れ、急性心不全で死亡した(以下「本件災害」という。)のは、公務によるものであるとして、太郎の妻である原告が、地方公務員災害補償法(以下「地公災法」という。)に基づき、被告に公務上の災害の認定を請求したが、本件処分がなされたため、その取消しを求めている事案である。

一  争いのない事実等

以下の事実は、当事者間に争いがないか、又は、括弧内に掲げた証拠によって認めることができる。

1  被災職員(<証拠略>)

太郎(昭和一二年三月五日生)は、昭和三二年五月一日付けで東京都公立学校教員に採用され、昭和六〇年四月一日付けで東京都清瀬市公立学校教頭に任命され、清瀬第十小学校教頭(昭和六〇年四月から六三年三月まで)、清瀬第九小学校教頭(昭和六三年四月から平成元年三月まで)を経て、平成元年四月一日付けで同市公立学校長に任命され、同日から清瀬小学校長として勤務していた。

2  太郎の職務内容等(<証拠略>、原告本人)

(一) 校長の職務は、校務をつかさどり、所属職員を監督することであり、教頭の職務は、校長を助け、校務を整理し、必要に応じて児童の教育をつかさどることである(学校教育法二八条)。

(二) 本件災害当時、清瀬小学校は、児童数五五九、各学年三クラス(ただし、三年生のみ二クラス)と、精神薄弱・情緒不安定の児童一一名が所属する特殊学級一クラスの合計一八クラスがあり、職員は三九名であった。

(三) 平成元年度の清瀬小学校の勤務時間は、月曜日から金曜日までが午前八時一五分から午後五時まで(休憩時間は午後四時から午後四時四五分まで)の所定内労働時間八時間、土曜日が午前八時一五分から午後零時一五分までの所定内労働時間四時間であった。

(四) 本件災害当時、太郎は、毎朝午前六時五〇分ころ自宅を出て、自家用車で通勤していた。通勤に要する時間は片道三〇分程度であった。

3  太郎の健康状態等(<証拠略>)

(一) 太郎は、身長が約一六四センチメートル、体重は昭和五〇年の五五キログラムから徐々に増え始め、昭和六三年六月には六四・六キログラムであった、アルコールは、晩酌に三五〇ミリリットル入りの缶ビールを一缶、清酒一五〇ないし二〇〇ミリリットルを飲み、たばこは一日一〇本程度吸っていた。

(二) 太郎は、毎年一回職員健康診断を受けており、昭和四七年に狭心症様症状と診断され、経過観察と負荷心電図検査の必要性を指摘されたが、その後昭和五七年までの間、循環器系の異常は認められなかった。昭和五八年及び六〇年には心電図検査により左心室肥大と診断され、昭和六二年には六か月毎に心電図検査を受けるよう指摘され、いずれも要注意の判定を受けたが、検査・治療の必要性は特に指摘されなかった。昭和六三年六月には冠不全の疑いありとの診断を受けたが、健康との判定であり、この時も検査・治療の必要性は指摘されなかった。

昭和五九年三月に疲労感を訴えて病院に行った際、心電図検査を受けたが異常は認められず、昭和六一年七月に受けた精密ドッグ(ママ)検査においても循環器系の異常は指摘されなかった。昭和六三年二月には、心電図検査の結果異常が認められなかったことから、予定されていた左陰のう水瘤の手術を受けることができた。

(三) 本件災害前、太郎の体調に関して次のような出来事があった。

本件災害の約一か月前である平成元年四月一五日、太郎は、自宅で朝食後左胸痛を訴え、気分が悪いと言って長椅子で一五分程横になって休んだ。顔色はやや青く、脈拍数は一分間に九〇でやや微弱であった。結滞はなかった。

同月二五日は日光修学旅行実地踏査の二日目であったが、太郎は、投宿先の宿舎で朝食時の打ち合わせ中顔面蒼白になり、多量に発汗し、一〇分程横になって休んだ。脈拍数は一分間に七〇ないし八〇であり、結滞があった。

しかし、本件災害に至るまで、太郎は、教頭、校長としての職務を特段の支障なく遂行していた。

4  太郎の死亡(<証拠略>)

平成元年五月一八日、太郎は、五年生の児童の登山遠足の引率業務に従事中、山道を約三キロメートル歩いて登った後、石段を下り上りし、平均斜度六ないし八度の上り坂を二〇〇メートルほど上った地点で、午前一一時〇七分ころ、ガードレールにもたれるように突然しゃがみ込み、一度立ち上がりかけたが再び崩れるようにうずくまった。約一時間後救急車で飯能市立病院に搬送されたが、既に死亡しており、急性心不全のため午前一一時一〇分ころ死亡したものと診断された。

5  本件処分等の経緯

原告は、太郎の死亡は公務によるものであるとして、地公災法に基づき、被告に対し、公務上の災害の認定請求をしたが、被告は、平成三年六月二一日、本件処分をした。原告は、これを不服として、地方公務員災害補償基金東京都支部審査会に審査請求をしたが、平成五年一〇月一四日付けをもって棄却され、さらに地方公務員災害補償基金審査会に再審査請求をしたが、平成六年七月二〇日付けをもって棄却され、同裁決書は同年一二月二二日原告に送達された。

二  争点

太郎の死亡は公務上の災害か。

三  当事者の主張

1  原告

(一) 太郎は、次のとおり、清瀬第十小学校教頭及び清瀬第九小学校教頭としての職務からきた疲労が蓄積していたところに、清瀬小学校における新任校長としての多忙な公務に加えて、修学旅行や遠足の引率業務が集中し、極度の疲労状態となっていたときに、児童の登山遠足の引率業務に従事中、急激な石段を下り上りした後急な坂道の途中で倒れ、死亡したのであるから、太郎の死亡が公務によるものであることは明らかである。

(1) 管理職である校長、教頭の職務は、学校経営のための教育課程管理、施設管理、人事管理、予算事務管理等の管理・監督のほか、教育委員会からの委任事項の実施・報告、教職員組合との折衝、PTAとの各種打ち合わせ・報告、教頭会・校長会への出席、各種研修会への出席、展覧会・スポーツ大会の開催・参加等、大変な激務である。太郎は、まじめな性格からこれらの職務を全力で遂行し、毎朝七時半の登校を欠かさず、時には仕事を自宅に持ち帰って、夜遅くまで仕事をしなければならなかった。

(2) 太郎が昭和六〇年四月から三年間、教頭として勤務した清瀬第十小学校では、卒業式や入学式の際に行う国歌斉唱、国旗掲揚に反対する教職員組合との軋轢がひどく、組合との対立関係は学校経営全般にわたっており、PTAや教育委員会との関係でも問題が生じていた。

その後太郎が転勤した清瀬第九小学校では、国歌斉唱、国旗掲揚問題のため前任の校長が心労により休職(その後復職することなく退職)に追い込まれるという非常事態が発生しており、昭和六三年四月、他校で国歌斉唱、国旗掲揚問題への取組みの実績が評価されていた山口敬正が校長として、太郎が教頭として、同校に赴任することになったのである。校長、教頭がともに新任で着任すること自体異例であるうえ、太郎は校長に任命される前年に教頭として一年間だけ清瀬第九小学校に転勤したのであるが、このようなことは極めて稀である。

太郎は、清瀬第九小学校の学校経営に関する引継ぎも十分でないまま、組合問題等で苦労に苦労を重ねる一方、清瀬市小学校教頭会の副会長として、その会務の運営にも尽力した。そして、同年一二月ころからは、通常業務に加え、卒業式における国歌斉唱、国旗掲揚問題の本格的議論が始まり、罵声を浴びせられることも多々ある中で組合との交渉を行わなければならなかった。平成元年三月には、清瀬小学校長就任を控えて、清瀬第九小学校、清瀬小学校両校における引継業務、各種団体への挨拶廻り等のため春休みも一日も休むことができないまま、四月一日、清瀬小学校に着任した。

清瀬小学校は清瀬市一番の伝統校であり、各種団体からも注目され、太郎はその職責の重さに緊張を強いられる中、同市立小学校の校長らで組織する日光修学旅行運営委員会の副委員長として同委員会の運営に尽力し、同月二四日から二五日にかけて日光への修学旅行の実施踏査に参加し、五月一二日から一三日にかけて実施された修学旅行では児童の引率業務に従事した。そして、本件災害の前々日である同月一六日には、三年生の児童の遠足の引率業務に従事し、学校に戻って休む間もなくPTA拡大委員会に出席し、帰宅して原稿書きを約二時間行い、午後一一時ころ就寝した。翌一七日は、朝六時に起床し、七時半に出勤、午前中校務を行った後、午後は雨天の中、職員研修会(清瀬市内巡り)を決行し、予定時間をオーバーして学校に戻り、職員と懇談した後、清瀬第八小学校で行われた学校経営研究会に出席し、その後「PTAごくろうさん会」にも出席して夜遅く帰宅するという超ハードスケジュールをこなし、心身ともに極度の疲労が蓄積していた状態で、本件災害当日を迎えた。

(3) 同月一八日、前日からの雨のため遠足中止も危ぶまれたので、太郎は、午前一時半ころ一旦起床して天候を確認し、再度就寝し午前五時ころ起床し、午前五時五八分の遠足決行の最終決定を経て睡眠不足のまま午前六時四〇分に出勤し、前日の雨のためぬかるんで滑りやすい山道を、転落事故等の危険を回避しながら、約二時間にわたって、心障児二名を含む児童を引率していたものであり、その心労は並大抵のものではなかった。しかも、激しく息切れする急斜面の石段を下り上りした後、再度急斜面の坂道を上ることは、肉体的にも相当な負担であった。

(二) 太郎は、急性心不全を発症させる素因又は基礎疾病を有していたものではない。しかし、仮に基礎疾病を有していたとしても、公務遂行が精神的、肉体的に過重負荷となり、基礎疾病を自然的経過を超えて急激に増悪させて死亡の時期を早め、基礎疾病と共働原因となって死亡の結果を発生させたものであるから、太郎の死亡は公務上の災害である。

2  被告

(一) 職員が災害を受けた場合、その災害が公務上の災害と認められるためには、公務と災害との間に条件関係があることが必要であり、かつ、公務のほかに災害の原因が存する場合は、単に公務が災害の共働原因であるというだけでは足りず、競合する原因のうち公務が公務外の原因に比べて相対的に有力な原因であることを要するというべきである。そして、公務が公務外の原因に比べて相対的に有力な原因であるかどうかは、経験則に照らし、当該公務に当該災害を発生させる危険があったと認められるかどうかによって判断される。

(二) 太郎は、本件災害当時、心疾患に罹患していたのであり、他方、平成元年四月以降太郎が従事した公務には、特に過重な負担となるようなものはない。仮に四月からの公務に過重負荷が多少あったとしても、五月初めには連休があったのであり、休養は十分であると思われる。したがって、たまたま公務を機会原因として本件災害が発生したに過ぎず、太郎が公務に従事しなかったならば本件災害は発生しなかったであろうという関係(条件関係)はない。

仮に、太郎の公務と死亡との間に条件関係があるとしても、太郎の心疾患は相当進行していたのであり、その心疾患が公務により自然的経過を超えて明らかに増悪したものとは認められない。したがって、公務が本件災害の相対的に有力な原因であるとは認められない。

第三争点に対する判断

一  「公務上」の意義について

地公災法に基づく補償は、公務上の災害(負傷、疾病、傷害又は死亡)に対して行われるものであって(同法一条)、本件で問題となっている遺族補償(同法三一条)は、「職員が公務上死亡した場合」に支給される。ここでいう「職員が公務上死亡した場合」とは、職員が公務に基づく負傷又は疾病に起因して死亡した場合をいい、右負傷又は疾病と公務との間には相当因果関係の存することが必要であり、その負傷又は疾病が原因となって死亡事故が発生した場合でなければならない(最二判昭五一年一一月一二日裁集民一一九号一八九頁、判時八三七号三四頁参照)。そして、地方公務員災害補償制度は、公務に内在又は随伴する危険が現実化した場合に、それによって職員に発生した損失を補償するものであることに照らせば、職員の負傷又は疾病と公務との間に相当因果関係が認められるかどうかは、経験則及び医学的知識に照らし、その負傷又は疾病が当該公務に内在又は随伴する危険が現実化したものであるかどうかによって判断すべきものと解される。そして、負傷又は疾病が公務に内在又は随伴する危険が現実化したものとみられるためには、当該公務が肉体的、精神的に過重負荷と評価される内容のものであることが必要であり、この公務の過重性は、当該職員と同種の公務に従事し、当該公務に従事することが一般的に許容される程度の心身の健康状態を有する職員を基準にして判断すべきものと解される。

以下、このような見地から、太郎の死亡が公務によるものといえるかどうかについて検討する。

二  太郎の勤務状況について

(証拠略)及び原告本人尋問の結果によれば、平成元年の太郎の勤務状況は、以下のとおりであったことが認められる。

1  清瀬小学校着任まで

清瀬第九小学校教頭として勤務していた平成元年一月から三月までの出勤時間は、概ね午前七時二五分ころであり、退勤時間は、平日(月曜日から金曜日まで。以下同じ。)で午後六時ないし六時三〇分ころの日が多く、午後八時を過ぎた日は、一月にはなく、二月に三日、三月には六日あったが、いずれも午後一〇時を過ぎることはなかった。また、昭和天皇が崩御した一月八日の日曜日に半旗掲揚のため出勤したのを除いて、休日出勤はない。

2  清瀬小学校着任から本件災害に至るまで

(一) 四月一日清瀬小学校に着任したが、その後同月半ば過ぎまで、教頭との打ち合わせ、関係各所への挨拶廻り、前校長との事務引継ぎ、始業式・入学式等の行事、各種会合等のため多忙ではあったものの、平日は概ね午後六時過ぎには退勤しており、土曜日も退勤時間が午後五時を過ぎた日はなく、休日出勤はない。

(二) 四月二四、二五日の両日、清瀬市立小学校の日光修学旅行運営委員会委員として、他の委員とともに一泊二日の実地踏査に参加した。

二四日の天候は曇り後雨、午前六時三〇分に集合してバスで現地に赴き、足尾銅山、東照宮、華厳の滝等を経て、湯本にある宿舎に到着した。夜宿舎で行われたコース等の検討会は午前二時ころまでかかった。

二五日朝、前記(争いのない事実等3の(三))のとおり、気分が悪くなり一〇分程度横になったが、その後回復し、他の委員とともに、湯滝、赤沼、竜頭の滝、菖蒲ヶ浜等を経て帰路につき、午後五時ころ帰校し、午後六時三〇分ころ退勤した。

(三) 四月二六日から五月一一日までの間、太郎の従事した公務で通常の業務とは異なり特に負担となるようなものは見当たらず、帰宅時間が午後八時を過ぎた日は、歓送迎会の行われた四月二六日と五月九日の二日だけであり、四月二九、三〇日、五月三日から五日まで、七日の祝休日はいずれも出勤していない。

(四) 五月一二、一三日の両日、六年生の児童を対象に実施された日光修学旅行の引率業務に従事した。参加児童は一〇一名、引率職員は太郎を含めて九名であった。

一二日の天候は雨、午前六時三〇分に集合してバスで出発した。東照宮、華厳の滝等を見学した後、予定されていたハイキングコースを短縮して湯滝から湯本にある宿舎までの間だけを歩き、午後四時過ぎに宿舎に到着した。

一三日は午前八時一〇分ころ宿舎を出発し、龍頭の滝、菖蒲ヶ浜、足尾銅山等を経て帰路につき、午後五時ころ帰校し、他の引率職員と反省会を行った後、午後六時ころ退勤した。

(五) 五月一四日(日曜日)は出勤せず、翌一五日は終日校内で校務整理にあたり、午後六時過ぎに退勤した。

(六) 五月一六日、三年生の児童を対象に実施された日和田山への遠足の引率業務に従事した。参加児童は八三名、引率職員は太郎を含めて六名であった。

午前七時四〇分に集合して西武池袋線で高麗駅まで行き、日和田山山頂(標高三〇五メートル)に登り、高麗川を経由して高麗駅に戻り(徒歩区間の総距離約六キロメートル)、同駅から帰路について午後三時五〇分ころ帰校した。その後、PTA拡大役員会に出席し、午後六時三〇分ころ退勤した。

(七) 五月一七日、午前中校内で校務整理にあたり、午後一時三〇分ころから四時三〇分ころまで、職員研修会に参加し、雨の中を自動車で移動しながら清瀬市内の史跡等を見学した。午後五時三〇分ころから七時過ぎまで、清瀬第八小学校で行われた学校経営研究会に出席し、午後七時三〇分ころから九時ころまで、PTA主催の「PTAごくろうさん会」に出席し、その後帰宅した。

3  本件災害当日

五月一八日、五年生の児童を対象に実施された高山不動・関八州見晴台への遠足の引率業務に従事した。参加児童は九六名(うち心障児二名)、引率職員は太郎を含めて六名であった。遠足のコースは、西武池袋線・秩父線で西吾野駅まで行き、西吾野駅から高山不動尊参道入口、萩の平、高山不動尊を経由して関八州見晴台に至るハイキングコースを歩いて、再び西吾野駅に戻るというものである。

太郎は、前日午後一〇時三〇分過ぎに就寝したが、前日かなり激しい雨が降っていたことから、午前一時三〇分ころ、天候が心配で一旦起きて外の様子を見た後、再び床につき、午前五時ころ起床し、遠足の実施を決定して午前六時四〇分ころ自宅を出た。午前七時四〇分に集合し、清瀬駅を午前八時ころ出発し、午前九時ころ西吾野駅に到着した。

太郎は、西吾野駅で下車した後、児童より先発し、同駅から約一キロメートル先の高山不動尊参道入口で後続の児童らの到着を待ち、心障児二名を含む最後尾の班の到着を確認した後、午前九時四〇分ころ、最後尾の班の児童とともに高山不動尊を目指して山道を登り始め、午前一〇時二〇分ころ、高山不動尊参道入口から約一キロメートル先の萩の平に到着した。萩の平からは、緩やかな坂道を少し登った後、平坦な山道を進んだ。高山不動尊の手前で緩やかなコースと石段コースの二つに分かれており、太郎は、緩やかなコースを辿って午前一〇時五五分ころ、萩の平から約一キロメートルの距離にある高山不動尊に到着した。そして、石段コースをとった児童の様子を見るため、急な石段を途中まで下り、児童の安全を確認した後、石段コースを上って戻り、高山不動尊の境内を通って、前日の雨でぬかるんでいた平均斜度六ないし八度の坂道を約二〇〇メートル上った地点で、突然ガードレールにもたれかかるようにしゃがみこみ、一度立ち上がりかけたが、再び崩れるようにうずくまり、間もなくその場で急性心不全により死亡した。

なお、当日の気象状況は、所沢地域気象観測所測定の観測結果によれば、午前九時の天気は曇り、気温は一七・〇度、北の風毎秒三メートル、午前一一時の天気は曇り、気温は一九・〇度、北北東の風毎秒三メートル、秩父測候所測定の観測結果によれば、午前九時の天気は雨、気温は一五・五度、西南西の風毎秒〇・六メートル、午後零時の気温は一八・〇度、西南西の風毎秒〇・七メートルであった。

三  太郎の死亡と公務の関連性について

1  右に認定した事実によれば、平成元年に入ってからの太郎の公務の内容は、校長就任及び転勤に伴う変更があるものの、太郎は一貫してその職務を特段の支障なく遂行していたこと、その勤務状況は、初の校長就任と転勤が重なり多忙ではあったものの、いずれも校長就任時における通常の業務として予定されたものであったこと、死亡までの五か月余りの間で退勤時間が午後八時を過ぎた日は一〇数日に過ぎず、休日出勤は昭和天皇の崩御の日を除いて一度もしていないこと、修学旅行の実地踏査や遠足・修学旅行の児童の引率業務は肉体的、精神的に疲労を伴うものであるとはいえ、その疲労も祝休日に休養することによって回復することができないほど過激な内容であるとはいえないこと、本件災害当日の遠足の引率業務も、心障児二名を含む小学校五年生の児童を対象にしたものであり、特に過重というものではなかったことなどの事情を総合考慮すれば、清瀬第十小学校教頭及び清瀬第九小学校教頭として国家斉唱、国旗掲揚問題に取り組んだことによる心労や、清瀬小学校が清瀬市一番の伝統校であることによる職責の重さなど、原告主張の事実を考慮しても、この間太郎の従事していた公務が、太郎と同種の公務に従事し、当該公務に従事することが一般的に許容される程度の心身の健康状態を有する職員を基準にしても、過重であったと認めることはできない。

2  もっとも、(証拠・人証略)によれば、日本大学名誉教授大国真彦医師(以下「大国医師」という。)の意見は、次のとおりである。

すなわち、太郎の死亡は心臓性突然死であるが、心臓性突然死の原因として考えられるのは、心筋梗塞、狭心症若しくは特発性心筋症の基礎疾患を有していたか、又は基礎疾患を伴わない特発性不整脈(心室細動)である。そして、太郎の過去の健康診断の結果等によれば、心筋梗塞、狭心症又は特発性心筋症のいずれにも罹患していなかったものと考えられるので、消去法により、太郎の死因は特発性不整脈ということになる。特発性不整脈死は、過労や激しい運動がその誘因となるものであり、太郎は、山登りを含む遠足という公務を直接の原因として、特発性不整脈死に至ったものと考えられる、というものである。

しかしながら、(証拠略)によれば、中高年の心臓性突然死は、心筋梗塞によるものが圧倒的に多く、基礎疾患を伴わない特発性不整脈(心室細動)によるものは極めて稀であり、しかも、特発性心室細動は、睡眠時や安静時に起こることが多く、日常労作中や運動中に起こることは少ないこと、前記(争いのない事実等3の(二))の心電図検査の結果等によれば、太郎は、左心室肥大の疾患を有していたのではないかと疑われ、また、本件災害前に発症した前記(争いのない事実等3の(三))の諸症状は、冠動脈の攣縮を起こしやすい朝食時に発生したことに照らしても、狭心症の症状である可能性が高いことが認められる。これらの事実に照らせば、大国医師の意見については、太郎には心筋梗塞、狭心症又は特発性心筋症の基礎疾患がなかったとする前提自体疑問であるといわざるを得ないし、仮に太郎の心臓性突然死の原因が特発性不整脈(心室細動)であったとしても、先に判示したとおり、太郎の従事した公務が過重であったとは認められないことから、公務を直接の原因として特発性不整脈死に至ったということについても、直ちに首肯することはできない。したがって、大国医師の意見は採用しがたい。

3  なお、右のとおり、太郎は基礎疾患として左心室肥大をはじめ何らかの心血管系疾患を有していたのではないかと疑われるところではあるが、仮にそうであったとしても、先に認定した太郎の職務内容及び勤務状況等に照らし、太郎の従事した公務が、これら基礎疾患をその自然的経過を超えて著しく増悪させるほど過重であったと認めることはできない。

四  結論

以上によれば、太郎の死亡は公務上の災害であるとは認められないから、これと同じ判断の上に立ってされた本件処分は適法である。

よって、原告の本件請求は理由がないからこれを棄却し、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 萩尾保繁 裁判官 白石史子 裁判官 西理香)

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